昭和51年12月23日 月次祭 (末永信太郎)
信心に修行はつきものだ、と。教祖様も、信心する者は一生修行じゃ、ちょうど学者が年をとっても、眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞい、と教えておられます。学者がだんだん学徳が身に付いて来る、学識が広うなって来る。やはり、難しい学問に取り組まねばおられない、限りなく学問の道を極めて行く。私はその学者が、もう、自分は若い時から学者を目指して学者になったが、ね、本当に一生がきついことばっかりであった、と。
本当にもう、孫子の末まで学者にどもなしちゃならんという風に思うだろうか。本当の学者ならば、ね、その、もうそれこそ、眼鏡をかけてでも本を読んで、学徳を身に付けて行くことが、いわば生涯の楽しみでありましょう。まあ、信心で言うたら、有り難いことでございましょうように、信心もやはり、ね、一生が修行。しかも、それは学者が年をとっても眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞい、ということでなからなければならない。いや、それ以上なものでなからなければならない。
なぜかと言うと、この世一代のものではない。ね。生涯だけのものではない、あの世までもと言うのでございますから。今朝の御祈念の後の御理解に、仏教の言葉でしょうね、後生願いというのがある。これは、家の婆しゃんが良うお寺に参られるけれども、家の婆さんな後生願いの信心。
もう、根性どんばっかり供養してから、もう、ほんな後生( )ばっかり清うなってと言うのですから、これは悪口の、まあ、表現でございましょうね、後生願いの信心というのは。けれども私は、今日はこれをお道の信心で頂くと、後生願いの信心ということは、素晴らしい、有り難い、楽しいものであろうと思います。いよいよ、あの世。後生というところは、ね、魂を清めた上にも清めて行かなければ行けるところではない。ね。
(ちかじ?)を持って行かなければ行けるところではないと教えられるのですから、あの世は暗黒だと言われるのですから、この世で信心のいわゆる魂の輝きを頂いて、光を頂いて行かなければ、ね、いわゆる、光明世界には住み得られない、暗黒の世界に住まわなければならない、と教えられるのですから、ね、後生を願えば願うほど、いよいよ本心の玉も磨かせてもらわなければならない、日々の改まりにも取り組ませて頂かなければならない。その日々の改まりやら、日々、すべての事柄を通してそれを磨く材料として、本心の玉を磨いて行くと言うのですから、それが信心なのですから、ね、楽しいこと。
また、それが修行なのですから、有り難い。今日、午後の研修の時に、だいたい、この修行という言葉を教祖もお使いになっておられるけれども、金光教では修行という言葉は一般の宗教者が使う信心修行とは全然意味が違うのです。ね。それが、最近はっきり、合楽ではそれを(めいり?)して行っておるわけです。ね。此方の行は、もういよいよ持って家業の行であり、心行であり、言うなら合楽理念に基づいて行くことに精進すること、そのことが修行である。家業の行と言うても、その家業の行の中に合楽理念と家業とが一つになっておらなければならない。ね。しかもその上、実意丁寧神信心でなからなければならない。ね。
それは、例えば、牛馬のことに至るまで、人間身の上何なりとも、もう、万事万端のことをです、ね、願えと仰せて下さる親神様。ただし、実意を持って願えと仰る。だから、実意の現れが生活でなからなければならない。生活がそのまま、実意でなからなければならない。疎かなことがあってはならない。成そうと思えば子供でも成せることを疎かにするというような怠慢なことがあってはならない。
それはもう、大着だ、わがままだと、そこに実意を込めて、先ほど末永先生が申しておりますように、親先生は実意丁寧神信心ということをいつも風呂場のことで仰る。いつも、下駄をそろえるとか、便所のことだけで言われるけれども、一時が万事にその通りなのだ。帳面一つ使わせて頂くでも、ね、いいかげんなことじゃない、例えば字を書くでも、やはりそこに実意を込めて、疎かなことは出けない。
そこから生まれて来る体験が素晴らしいと言ってます。そこから、今までかつて味わうたことのない有り難いものが湧いて来るから不思議だと言うのです。実意丁寧神信心とは、そういう功徳があるのです。それが、だんだん身に付いて参りまして、それが血肉になって来る時に、難しいものではなくて、それは楽しい有り難いものに、そこまで、いわば釘付けて行かなければいけん、信心を。
しかも、この世でおかげを頂くということのためではなくて、ね、後生までも願うて行こうということのための信心なのですから。ね。だから、修行と言うと、さあ、そげな修行はとても私だん出けん。すと、まあ、修行と言やあ、大変難しいことのような、そのイメージがございます。
金光教の信心、だから、何かこれは他に言葉を変えたらどうだろう。これば、修行のことば英語で言うたらどげんなるじゃろうかと言うて、今日は私は申しました。もう少し、聞いただけで楽しゅうなるような、聞いただけで有り難うなるような、ね、そげなん信心なら頂きましょうかという、言いたくなるような表現はないものだろうか。信心に修行は付き物なのだから、その付き物である修行という言葉ではなくて、修行ということは、何かきついこと、苦しいことというようなイメージがあるから、ね、はあ、そんなに楽しい、そんなに愉快なものならば、そして、その上そんなにおかげが受けられるものならばと、何か思わせるような表現はないだろうかと言うて、まあ、話したことでした。
確かに他の信心で言う修行とは、もう、特に今の合楽では、もうまったく異なっておるのです。(しかも?)、今朝から頂きます御理解から頂きますとです、ね、その修行が、ね、今日は私、朝の御理解に教典を開かせてもらいましたら、教典の御理解というところが、御理解というところがあります、「御」という字を頂く。しかも、御という字を行人偏と、あれは、卸し小売の「卸し」という字が書いてありましょうが。ね。だから、行にもやっぱ、卸し売りと小売とがあるということ。
というのは、どう言うかというと、まあ、言うならばプロとアマということになるかも知れません。ね。今日はだから研修ん時に、今朝の御理解は、いや先生方ばっかりですから、今日の御理解はもういよいよ持って、あなた方が頂かんならん御理解だったねと言いながら、実を言うたら金光者の、金光の信心をさせてもらう信奉者の全てが、その小売から卸売りにならなきゃならない。
それは、どういうことかと言うと、ね、おかげを受けなければならない。どうでも、言うならば健康にならせて欲しい、経済の面でもおかげが頂きたい、人間関係の上にもおくり合わせを頂きたい。そういう、例えばおかげから入って、そのおかげ信心を、まあ、小売の信心と言うならば、ね、いよいよ信心を頂くという、言うならば御徳を頂くという、後生のために徳を積んで行かなければならない、それが信心だと極まったところから、これに対するところの修行は、もう限りがないものだ、という。
そこで、その目当てとするものは、どこにおかなければならないかと言うと、これほど信心するのに、どうしてこのようなことが起こって来るであろうかと一般では申します。これほど信心するのに、どうして、こういうことが起こって来るであろうか、と。
もう、そういう心が起こったら、もうそれは、ね、小売の信心である。ね。そういう信心は、もう、そこで信心が止まっておるのですから、言うなら信心が進むということはあり得ません。ね。これは、まだ私の信心が足りんのだと、そこから信心を一段進めて行けば、そこからおかげが受けられるです、そこからおかげも受けられるが、その信心姿勢から、言うならば、ね、また一段と高い理念の修行に入って行くことが出けるという。もう、だから、いつもこの気持ちがなからなきゃいけん。
どうしてこのようなことが、というのではなくて、ね、神様がこうして力を付けて下さるんだという頂き方。ね。これは、まあだ、私の信心が足りんのだと思うてという、これがいつも私どもの心から離れてはならないです。ね。日田から坂本さんという自動車の修繕工場をなさっておられるご夫婦が、もう、毎日毎日、この頃は有り難うして、楽しゅうして堪えん。また、おかげを受けます、もう、実にシャープなおかげです。ね。お導かれる方達がみんな、その、めくらが目が開いたり、ちんばが立ったり、物を言わんとが物を言うごつなったりしたおかげを頂きよるです。自分がお導きした、毎日その方達のお届けがあるんです。
もう、その方達からは、だからもう、神様のように言われる、さあ、有り難いち。もうアンタはこの頃、もうとにかく、どうにも出けない苦しい病気がね、ここにお導きをしてお願いに来たその日から、明くる日からおかげを頂いて、ちょうどこの頃、私どもが14日に共励会に、一年に一回私が参ります。ね。
それに、そん時、ちょっと( )その方から、その、今日は親戚中を呼んで、その、全快祝をする。その、今日は大恩人であるところの貴方にはどうでも来てもらわにゃならんというので、今日は共励会( )そんな訳で、向こうの方へお呼ばれしておったという訳です。もう、命の大恩人なんです。
しかし、有り難いですね。もう、本当に貴方が私に命の大恩人と言うて崇められる、喜ばれる。4~5日前から大変、数少ない自動車の注文があっておった。だから、お届けに来て、とても大分辺りにはあるまいから、福岡に探しに行かんならんというお届けがあっておりました。
ところがその日、大分から電話がかかって来て、こういう車があるがいらんじゃろうかと言うて来た。それが、ちょうど注文を受けておる、自分が探し行かんならんという車であった。もう、すぐ持って来てくれと言うので持って来てもろうた、車庫の中に入れてもろうておった。
明くる日、お客さんが来た、車庫に見げ行った。ところが、だいたいは2トン車でなからなければならんのが、1トン半の車であった。これは、その、間違うておる。まあ、うっかりした、自分は見もせずに、まあ、引き受けておったわけです。それで、向こうの方へ電話をかけた。
ところが、その、やっぱり間違いであった。それが、とても程度の良い車だそうです。そしたら、もう、こちらから無理を言うとだからと言うて、こっちもビックリするような値段に負けてもろうて引きとってくれないかということであった。そうしておるところに、今日の来た人が、その壱トン半車の車があんまり素晴らしい車で値段も安いもんだから、その自分に分けてくれないか、と。お金は、今は払われんけれどもと、こう言う。ところが向こうは、三月までで良いちゅうわけです。
なら、こっちも三月まで待ってくれと言う。その間違って来た1トン車の車が、まあ、おかげで売れたわけです。そこで、その今度は2トン車を探さんならん。ね。それで、車のあるところへ行ったところが、それが、こちらからの注文通りの車が見つかった。もう、それこそ、置いた物を取るようなおかげに、本当にもう、それこそ夫婦の者が顔を見合わせて、神様のお働きっちゃ畏れ入るねと言うて、毎日毎日がいわゆる畏れ入った生活が出けておる。で、今朝から参って来てからです、先生、昨日その、その車が久留米に収めなければならん。久留米に持って行かれた。ところが、久留米警察署から電話がかかって来て。
そして、アンタんところ、車はどこどこに置いてあるが、あれは注射違反のところであるから、警察に出頭しろと言うて来た。ね。面白いですね、神様。置いた物を取るように、しかも、その置いとったところが駐車違反であったですから、おそらく罰金が取られるわけですよね、警察に呼ばれて。だからね、そういう時が大事なの。それこそ、また売れた、また売れたという時には、もうそれこそ、夫婦の者が顔を見合わせて、まあ、何と神様のお働きの素晴らしいことよと言うて畏れ入った有り難いが感じるけれども。
これほど間違いのない働きがあっておるのに、どうして、わざわざ駐車違反しなければならないところに止めて来ておったか。警察からどうして呼びが来るか、まあ、先は罰金ということにもなるであろうが、ね。私は、そういう時がね、そういう時が、これは、ね、まあだ信心が足りぬからだ、と。
神様のご都合に間違いはない、これほど間違いのない働きを見せて下さる神様ですから、最後までおかげ下されたなお良かろうごたるけれども、そういうことだけが続くことではないということです。そういう時を大事にしなければならない。そういうところから力が受けられる、言うならばお徳が受けられるというのは、そういう時なんです。自分の思うようなことにならない。
あれは不思議です、もう、願うても右と願っても左、また右と願うても左というような時には、もう腹が決まってますからね。ドン腹が、修行のドン腹が決まっておりますから、それこそ矢でも鉄砲でも持って来いといったような勢いで受けて行くもんです。
これは、信心させて頂くモンでなかにゃ分からん。神様の( )、神様の働きも分かる。しかも、神様のこういう御守護の中にあることも分かる。それでいて、願いというなら、もう、それこそ右と願えば左というようになって行くけれども、そういう時にはです、いよいよ自分の願いが成就しないけれども、神様の願いが成就しておる時だというようなことが、実感出来て分かるようになる。
これが、信心が尊いところ。締め上げられれば締め上げられるほど、良い音色が出て来る。ちょうど鼓のあの(ちどりがけ?)。ね。おかげが(ちどりがけ、ちどりがけ)になって行く。しかも、こうやって締め上げられる。その締め上げられると締め上げられるほど、こういう難儀な中にどうしてこういう喜びが湧くであろうかというようなおかげが頂かれる。
もう、奇跡的なおかげを頂いたり、例えば、昨日一昨日、今日も参って来ておられる。まあ、その、参って来ておる方なんですけどね。もう、長年、蓄膿症でもう難儀しとる。もう、二回も手術したけども、どうにも出けん。お母さんと一緒にお参りをして来た。あるお願いが成就して、お願いに参って、そのことを一生懸命お礼申させて頂きよったら、もう感動が湧いて来て、感動が湧いて来て、どうにもしようがない。
二晩泊まられて、明くる日、( )の家内が私の御祈念しよる(前であるみせなんかただ?)もう、男泣きに泣いて御祈念しよんなさる。よっぽど苦しいことのあんなさるとじゃろうと思うて、その方のことば一生懸命、後ろから後ろ祈念させて頂きましてやって、何のじゃろうか、あれはもう、嬉し泣きじゃったったい。ね。それがね、それこそ二回も手術してどうにも出けなかった。
長年、それで苦しんで来ておった、そのために頭がどうかボンヤリしておって、仕事も大変手につかんというような状態の方がです、もうそれこそ、ここでお広前で御祈念しておる間に、鼻すとすとするごとあった。もう、それが有り難うして、有り難うして、なら、今日までもその感動が続いておられるわけ。
今晩もまた一晩、泊めて頂いて明日の御祈念を頂いて帰ると言うておられます。今、そういうようなおかげは合楽のお広前で毎日毎日続いておるです。だから、そういう時に湧いてくる感動というものはです、これは、まあ、誰でも湧かんなら湧かん方がおかしいぐらいです。
けれども、信心というものは、もうそれこそ、締め上げられれば締め上げられるほど、良い音色が(出る?)。叩かれれば叩かれるほど、良い音が出て来るというような、鼓のような信心が、まあ、填まっておる時には出けんのですけれども、今、坂本さんじゃないけれども、ね、信心が生き生きとして、願うことは成就しないことはないといったような、自他共に助かって行く。
はあ、神様っちゃ畏れ入ってしまうなと、顔を見合わせて喜び合うほどしのおかげを頂いておっても、今言う、そういう時である。ね。思いもかけないおかげが、かえって間違うて来たことがおかげであり、それを頼まんならん、願わんならんて向こうの方から言うて来る。さあ、もう、また売れた、また売れたというような状態の時。そして、もう、これでいよいよ納まったと言うて持って行ったところが、そこが駐車違反のところであって、その明くる日は久留米警察から電話がかかって来た。
そういう時にです、どうしてじゃろうかと言うたら、もう信心はそこで止まってしまうんです。神様の働きには、もう一分一厘間違いのない働きばっかりがあり続けておるのです。ね。だから、そういう時に、これはお母さん、まだ俺達の信心が足らんとぞ、と。おかげ、おかげで、おかげに逆上せ上がってしもうちから、ちった信心が、ね、上滑りしてしよったと、そこに大きな反省をさせて頂かなければならない。そこから、また今までとは変わった、より有り難い修行が出来て来るおかげを頂かなきゃいけんです。
修行というものは、だからね、もう本当の(聖教?)な信心というのは、とても、普通では考えられない。とても、信心もよかろうけども、あげな修行をせにゃんごたるなら、とても私だん、朝あげん参らにゃんなら、とても私どんじゃ出けんて言う。ところが、んなら、それを段々、行の上に現して毎日、日参でもさせて頂いて、その日参が有り難いものになって来る頃にはです、ね、もう、止めろと言うても止められないような信心に進んで行かなければ、言うなら、学者が眼鏡をかけて年をとっても本を読むようなものであろうぞい、ということにはならないし、あの世までも持って行ける後生願いの信心ということにはならないの。今日、ちょうど私、ここを5時ごろ下がって、お風呂入っとりましたら、久留米のちかみ市長二人が参って来ておると言うんです。けども、今入ったばっかりだから、ちょっと待ってもらいなさい。
いや、私でなかったら、いや、別にどうということ、ただお礼参拝したのですから、まあ、親先生によろしゅうと言うて帰りかけられたけれども、先生の方が、せっかくお参りして親先生のお話を一口も頂かんな帰るっちゃ、ちょっと待たせて頂こうち言われた。そして、また出て来ました。
それけん、なら、大接室で待って頂きなさいち言って待ってもらって、それから今日は会わせて頂いたんです。とても、この頃は先生方夫婦が、もう真剣に、もう願い信心というよりも、とにかくお話を頂いて心が開けて来ることが有り難い。例えば、どうにも出けない願いが成就して来る。先日も久留米の、今、理事会が毎日続いて、昨日終わった。もう、それは反対党ちゅうかね、の方達がもう、(アジびら?)をまいたり、もうとにかく、その、何て言うですかね、まあ、質問責めと言うですか、難しいことで。
まあ、それこそ、もう本当に今度ばっかりは自分の不徳を悟りました、と言うておられましたが。3~4日前、参って来た時の御理解が、もう、鮮烈に私の頭の中にあった。私がその日の御理解に、こういう御理解をしとったんです。ちょうど先日から、御本部参拝をさせてもらった。いわゆる、( )ところで、私どもは休ませてもらいますから、こう、2階で二部屋になった。こちらの部屋が、私は久富の奉仕を受けて足を揉んでもらいよった。その向こうでは、( )夫婦が何かお話しよりました。
それで、もう、それがちょっと近々声じゃった( )もう、私はあん時( )としたですもんねち言うちから、その、主人と話し合いますとです。したら、その、道雄ち言います、道雄さんが、お前はちっと付いて来すぎりよるち。(笑)私はこちらで聞かせて頂きながら、ああ、よかこと言いよると思うちからですね、お前はちっと付いて来すぎりよる。そりゃあ、もう、付いて来ても良いけれどもね、その付いて来たつが腹ん立つというようなことに、風にしたんじゃいけん。付いて来たことを信心で受けて行かなければならないという話をしとったんです。
もう、今度の議会では、もうそれこそ(追突することばかりであった?)。ね。だから、私はあの御理解を頂いてこの方というものは、その最後のところに寛の字で行け、寛大で行け。合楽理念をモットーにして、そして日々生活させて頂きゃあ、有り難いというお話を頂いとって、もう、ピーンと来ることばっかりであった、もう、顔色の変わるごたる事ばっかりだったけれども、これが信心で頂かなければならんとこだ、寛大の寛の字を頂かなければならんのだ。ウ冠は宇宙の宇であり、草冠は自然の働きである。ね。
そういう働きであると見ることが、寛の字だという御理解を頂いておったことが、もう、ピンと来るたびにそれは信心で頂いた。もう先生、その後の心の中のその穏やかさというかね、もう、あの、奥さんが言っておられるんです。もう、本当に実はあの御理解を頂いてこの方、主人の人相が変わりましたち、市長さんの。ね。まあ、深刻な顔で顔で帰って来てあったのが、そすと今日はもう、何もなかったかのような、その(ゆう?)で、ははあ、こういう風になって人間な大きくなって行くのだなと、もう、毎日思わせて頂いたという、今日はお届けを聞かせて頂きました。ね。
だから、教えというものがね、そのような風に頂かれてくる、そのことがとりもなおさず、合楽理念を実際の上に現しておることなんです。ね。しかし、この真剣に御理解を頂くということは素晴らしいですね。今までも、ずいぶんお参りになっておりましたけども、(ただ )、そのことやら、選挙ん時やらばっかりじゃった。ところが、この頃はもう、自分自身の心の中に頂くということが、もう、あそこに座ってジーッと夫婦で御理解頂いて帰られますです。
今日はもう先生の方が、せっかくお参りして、もう、先生のお話を一言でも頂かんなと、先生が言われた。そんなら大接間で待って下さいと言うて、まあ、小一時間でした、お話を色々させてもろうたり、また、聞かせても頂いた訳なんですけれども。なかなか、市長さんともなると、大変なことですね、やっぱり。
そりゃ、もう、金光様の先生が一番よかと思うた。(笑)ね。どうでも一つ、おかげを皆さん頂かれましてね、修行がね、とても信心のない時やら若い時にはね、例えば、そげなあの人の真似は出けん。とても、朝参り日参りしちゃる。とてもあげなことは出けんという事がね、楽しゅう、有り難う出けて行くようにならなければ、(聖教?)な信心とは言えません。
また、どういうような場合であっても、これは一日の内に何回もあるかも知れませんですよ。何かがあった時に、はあ、これはまあだ、私の信心が足りんのだという姿勢を付くって行かなければ、( )な信心とは言えません。どうしてと言う時には、もう、こっちが狂っとる時です。ね。これは、まだ私の信心が足りんのじゃと思うて、そこから信心を進めて行くうちに、言うならば、ね、それこそ学徳が身について来る、信心の徳が身について来る。信心すれば、一年一年有り難うなって来る。
信心をすれば年をとるほどに、位がつくものじゃと仰る、その位を感ずることが出ける。その位に対しておまかないもまた変わってくる。そういうおかげは、いよいよ有り難い。それがね、言うならば本当の後生願いの信心。これは、悪い意味じゃないです。ね。あの世というところは、この魂を清めて行かなければ、光を持って行かなければ行けるところではない。その光がいよいよ大きなものになって行くことの楽しみなのですから。ね。例えば、んなら、私どもが、ここに、もう、これは70ぐらいまでここに座ったら、後はもう、息子に任せちからというような思い、いっちょんない。
そりゃ、いくつで、いくつまでおかげ頂くか分からんけども、八十になろうが九十になろうが、いや、五体の続く限りは、やはりここに座らなければおられない。いや、座るということが一番有り難いんだと、私は分かって行きよる。言うならば、学者が眼鏡をかけても、やはり本を読んで学徳を身につけて行くように、信心の位をいよいよ願い求めさせて頂いての信心。
そういう信心を(聖教)な信心。ね。今日は、その(聖教)な自分の信心であるかどうかを分からせてもらう。どのような場合であっても、それは置いた物を取るような奇跡的なおかげを頂いて、そして、その次に反対なことがストンと起こる。やっぱ神様(しか?)こげなことがある。こげな、信心しよってどうしてじゃろうかと言うた時には、もう止まっておる。
そういう信心は、あの世までも持って行けるというようなものには触れることも出けません。ね。そこんところをいよいよ大事にさせて頂きながらの信心でなからなければなりません。今年いわば最後のお月次祭を奉仕させて頂きました。もう、いよいよ今年もわずかになりましたが、ね、まあ、後、今度25日に何かがですね、何ですか。あれは皆でしょう、何か書いてありますが、帰りワーッと見て行って下さい、感謝の夕べか何かちゅうとがあります。ね。
それから、31日は除夜祭。一年中の御礼やら、そして、いたらなかったところを、もう心行くまでお詫びをさせて頂くお祭りです。そして、新たなところで、いわゆる元旦祭を迎えようというお祭りが、31日に除夜祭と銘打ってのお祭りがございます。どうぞ。